The Red Room
BDSMだけど穏やかな、二人で暮らす日々。
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ガラパゴス化
仕事で私が遅くなった夜、先にインして外出していた主をこうして出迎えた。
「Blacklace(二人ともお気に入りの下着屋さん)から新作が出てたから、見に行って来たよ^^」
どうでした?素敵なものありました?
「良いのは良いんだけど」
「最近はあれでも刺激が少ないw」
^^;
「だって、家に帰ればこれだもの」
レイヤーの服は脱がされ、かわりにニップルピアスに、ビーズの飾り。
最近の私の一番のお気に入り。
「下着が普通に見えてくるw」
こういう服ばかり選んでくる自分の変化の仕方は、一種のガラパゴス化のような気がするというと主が大笑いした。
ヨーロッパのボンデージも着るし普通の洋服も着る。Goreanでもない。
だけどここでの普段着はシルク。
それも、よくある長いひらひらの布の彩度の高い色のシルクではなく、金属の飾りも少ないものがいい。
その上レイヤーのシャツだけでも嫌、プリムブラだけでも嫌、こうしてボディジュエリーもついているものがいいという我が儘。
「うん、確かにしおりが選ぶシルクはハリウッド的でもなく、ヨーロッパ的でもない。オリエンタル^^」
「他にはあまり見ない。やっぱりガラパゴス化w」
そう、うちに引きこもってばかりの私ならではの変化なんだろうな。
ロールプレイシムに行くこともないので、好きな色のシルクを着る。
アダルトエリアで他のslaveを見ることもないから、奴隷の普段着がどんなものなのかわからない。
ただ自分が着たいものだけを着てる。
自分が着たいものは大抵主が喜んでくれるかな?というものだから、その結果が家庭内露出狂になってしまったのだろう。
この写真で着ているシルクは、見た目はまったく豪華な衣装ではないのに、値段は高価なドレス並み。
首輪やカフの邪魔になるプリムの多い服は着られない、冬なのにブーツも履けない私に主が許してくれた贅沢がこれだ。
ガラパゴス化しているのはきっと服装のことだけじゃない。
私たちの生活自体がガラパゴス化してるのかも知れない。
でもそれも一つの暮らし方。
この世界での一つの生き方。
今さら別の愛し方も愛され方も選べないよ。
***本文だけでは少々わかりにくいかも知れないので***
・ガラパゴス化・・・「世界の流れとは全く違う方向に発展すること。大陸からは隔絶された環境にあって、動植物が独特の進化を遂げた南太平洋のガラパゴス諸島になぞらえてこのように呼ばれている。」はてなキーワードより。
・Gorについて・・・リンクさせて頂いているamiko*amikikoさんのこちらに詳しく書いてあります。
「はい」「ありがとうございます」
「はい」
「ありがとうございます」
主から最初に教わった言葉。
自分に従え、お前の返事はこれだけだと教え込まれた言葉。
何をされてもそう答えるのだと教えられた言葉。
「はい」
「ありがとうございます」
毎日そう答えながら、私は時々不安になる。
色々な「はい」「ありがとうございます」があって、
その中にさらに色んな自分がいる。
本当に嬉しくて言えるとき、
素直に感謝しているとき、
嫌だけど言わなければいけないからと習慣から口にするとき。
主に「ありがとうございます、だろう?」と叱られ、
泣きたいような気持ちで嫌々ながら答えるときもあれば、
叱られることや嫌々答えさせられること自体を
ひっそりと暗く愉しんでいることもある。
与えられた苦痛や屈辱に対して「ありがとうございます」と答えることで
受け入れさせられる被虐を舌なめずりするように味わい、惨めさに甘く溺れる。
服従を強制させられている実感にうっとりと酔いしれる。
苦痛や屈辱が深ければ深いほど、囚われた奴隷であることの快楽も深い。
でもたまに、恥辱や苦痛が自分の限界を超えたとき。
私の中で何かが崩壊してしまったとき。
そんなときの「はい」「ありがとうございます」は、ただ自動的に出てくる言葉。
何も考えず、考えられなくなっていることも感じず、真っ白な意識でただ淡々と従う。
恐怖もない。羞恥心もない。屈辱も感じない。
苦痛や快楽に声をあげていても、何の感情もおきない。
全てをただ当然とだけ受け入れ、何も望まず、何も感じず、ただ言いなりになるだけの人形。
目の前にいる主も遠く、自分すらも遠い。
こんなに色んな「はい」「ありがとうございます」があるのに
私は主に自分がどの状態で「ありがとうございます」を言っているのか、
ちゃんと伝えきれているんだろうか?
私はとても不安になる。
それでも私は今日も「ありがとうございます」と繰り返すし、
さらに苦しみながら言わされることを望むだろう。
耐えられないことを耐えられるようになり、それに感謝するようになる。
主がその変化を愛で、楽しんでくれるから。
拒むようなことを感謝して受け入れさせる、
その歪みを私に与えてくれることに感謝するから。
従順は諸刃の剣
「はい」「ありがとうございます」の夜から考えていたことがある。
羞恥心や屈辱感はマゾヒズムと切り離せないもの。
だけど、もしそのスイッチが入り過ぎていたら。
何をされても屈辱じゃないだろう。
はずかしさも感じないだろう。
主に使ってもらえて嬉しいだけ。
自分が何をしても、それは屈辱じゃない。
だけどそれは主にとって楽しいことでは決してない筈だと思う。
私の従順は主が楽しむため。
主が求めたもの。
けれど、もしかしたら。
私が従順でいようとすることは主を喜ばせることだろうけれど、
同時に主を退屈させることになるのかも知れないと思う。
ためらいもなく服を脱ぎ抵抗もなく足を開く女なんて、
誰が抱きたいと思う?
好きな女を苦しめ、本気で嫌がらせ泣かせることを楽しむ主。
ならば何を命じても「はい」と即答できる女なんて退屈なだけだろう。
きっと主の求めるものも矛盾している。
だけどそもそもサディズムもマゾヒズムも矛盾したもの。
大切にしたい痛めつけたい。笑顔を見たい苦しむ顔を見たい。
大切にされたい痛めつけられたい。笑顔でいたい苦しむ顔を見てほしい。
そこまでせずにいられない自分を受け入れてほしい。
私たちにとってはごく自然な感情、自然な愛し方。
主に充分に愛されていることをよくわかってる。
なのに私はいつだってもっと苦しめて、もっと罰をくださいと飢えている。
主は体に痛みを加えることは先に全て自分の体で試して限界を知っておく慎重で誠実なMaster。
だけどもう、マゾの私が耐えられる痛みは、多分主のそれを超えている。
あさましい。自分でわかってる。
それでも従順でいたい。
苦しまずに従えるようなことなら足りない。
そんなことで退屈させたくない。
苦しんで嫌がって屈辱に塗れ、それでも従えるのかと試されたい。
ああ、わかった。
私は従順さえ咎められたいんだ。
服従を求める理不尽から全てが始まっているのだから、
全てそのままに。
あなたの思うがままに。