The Red Room
BDSMだけど穏やかな、二人で暮らす日々。
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この人の愛し方
本当のことを言えば、私は最初、奴隷になった自分を想像できなかった。
BDSMには確かにD&S(Domination & Submission:支配と服従)の側面がある。
だからといって、必ずしも、サディスト=Master、マゾヒスト=slaveというものではない。それはまた別の資質。
Dominant側の相手によってはだけど・・・Submissionは、白を黒と言われてもそう信じる思考停止が必要になる。
それを受け入れ続けるのは、すごく苦しい。
自分を騙し続けるんだもの。
思考停止を楽しめればいい。それも健やかな楽しみだと思う。
でも実際にあるレベル以上の苦痛や屈辱があたえられる時には、楽しむ余裕はなくなってくる。
(ああ・・・だからSLでのBDSMを選ぶ人は多いのかな?
それを言っちゃおしまいってやつだけど、実際の苦痛はないもの)
RLなら、次の段階には、逃避のためなのか、人の防衛本能の表れなのか知らないけど、それを受容するための何かが生まれてくる。
それは痛みを快楽に変える脳内麻薬や、屈辱感を受け入れるための自虐的な思考や・・・目の前のサディストを愛しているという錯覚だったり。
恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作(セルフ・マインドコントロール)。
そこまで相手を追い込むなら、とても重い責任が生まれると私は思う。
苦痛や屈辱を与えることで愛情の表現をする人か、
苦痛や屈辱を与えることで快楽だけを求める人か、
その時の行為や口にする言葉は、まったく同じかも知れない。
でもそれはまったく別のタイプの人間。
前者なら、ちゃんと責任を自覚した上でするだろうし、互いの限界を常に考えている。
互いの快楽のために、その限界を少しずつ伸ばすのに必要な、こまやかな忍耐や優しさも持ち合わせている。
主のもとに来た時には、まだ主のことをわかっていなかった。
何ヶ月も前に「おいで」と言われた時には、笑って受け流した。
再会して、また「おいで」と言われた時には、私もこの人と過ごしていきたくなっていた。
でも、まだどこまで信じられるかわからない時のマゾヒストの思考停止は、あまりに危険だと知っていたから、奴隷になるのは怖かった。
でも、主のBDSMが愛情表現だと信じられたとき、初めて、奴隷という形でも私を主の許に呼んでくれたことに感謝できた。
それがこの人の愛し方。
この人を受け入れて、この人に応えていきたいのです。
だから私は奴隷でいて、しあわせ。
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